ボーゲンハウゼンの小道

ドイツを観光客として訪れても、住宅街に行くことはめったにない。だが、この国の美しさは自然に包まれた住宅街にこそ、最もはっきり表われている。特にミュンヘンの北東にある、ボーゲンハウゼン地区は、ドイツで最も優美な邸宅街の一つだと思う。バイエルン州議会の議事堂から北側の、イザー川に沿った地域を歩いてみよう。マリア・テレジア・シュトラーセやメール・シュトラーセという通りに沿って、百年前に建てられた邸宅が、ずらりと並んでいる。その多くは広いテラスを持ち、アールヌーボー様式の装飾がほどこされている。庭には花が咲き乱れ、ブロンズの彫刻を配した噴水が涼しげな音を立てている。ミュンヘンの中心街は、戦争中の爆撃で破壊されたが、この地区は幸いほとんど被害を受けなかった。邸宅の多くは、歴史的建築物に指定されているため、むやみに取り壊したり改築したりすることはできない。

ドイツのすごい所は、莫大な金をかけて、百年前の邸宅をきれいに修復し、まるで昨日建てられたかのような状態にしていることである。ほとんどの建物は、個人の住宅ではなく、投資銀行や弁護士事務所、大学の研究所、総領事館などがオフィスとして使っている。

いちど、そうした邸宅の一つに足を踏み入れる機会があった。四階建ての小さな城のような建物である。階段にある円柱には、人間や動物の顔の浮き彫りが施されている。中には犬に耳を噛まれて叫んでいる人もあり、ユーモラスな彫刻である。踊り場の暖炉には、唐草模様に男女の姿をちりばめた壁画が描かれており、その上部には合掌する天使の浮き彫りがある。壁には、水は出ないものの古風な洗面台が残っている。

ある部屋の天井には、中世の教会のように、無数のアーチが彫り込まれている。またこの部屋には、陶製のストーブ(カッヘル・オーフェン)が残っている。大人の背の高さくらいの、ごついストーブは、スチーム暖房がなかった時代に使われたもので、中で薪を燃やして部屋を暖める。このお屋敷も企業のオフィスとして使用されているが、社員たちにとってはまるで博物館の中で働いているようなものであろう。古い建物でも壊さずに大切に使う、ヨーロッパらしい感覚である。 

遊び心の感じられる住宅もある。ある邸宅の前を通りかかると、男性が二階のテラスから通りを見下ろしている。翌日に家の前を通った時も、同じ所に人がいる。変だなと思ってテラスをよく見ると、それは等身大の大きさで、テラスの壁に描かれた人の絵だった。この邸宅の所有者、もしくは入居者は一種の「トロンプイユ」(だまし絵)で通行人を驚かせて、喜んでいるわけだ。細かいことだが、私はこんな遊びの精神に人々の心のゆとりを感じる。

だが、この邸宅街には暗い歴史もある。戦前、この地区には多くの裕福なユダヤ人たちが住んでいた。そのことは、メール通りにユダヤ人学校が残っていることからもわかる。だがナチスが権力を奪取し、人種差別政策を実行し始めると、ユダヤ人たちは邸宅を没収された。中には強制収容所へ送られて命を落とした人々もいる。たとえばメール通り21番地の豪邸は、カウフマンという裕福なユダヤ人の持ち物だった。彼はナチスの人種法によってユダヤ人と認定され、邸宅の没収を通達されたため、一九四0年に妻と息子とともに自殺している。この邸宅は戦後ネオナチと接触のある「ダヌービア」という学生団体によって購入され、外国人に暴力をふるった後、逃亡中だったネオナチをかくまうのに使われたこともある。この街の豪壮な屋敷の裏には、血塗られた歴史が秘められ、民主主義を脅かす闇の勢力がうごめいていることもあるのだ。

さてこの邸宅街からさらに北に歩くと、十八世紀に建てられた聖ゲオルグ教会の塔が見えてくる。この教会の墓地は、ドイツの芸術家が葬られていることで有名である。作家エーリッヒ・ケストナー、オスカー・マリア・グラーフ、映画監督ライナー・ファスビンダーらがここに眠っているが、みな墓は質素である。この教会の近辺では、街灯も古めかしい十九世紀風の様式のままで、道路も古風な石畳。芸術に一生を捧げた人々の永眠の地としてはふさわしい気がする。芸術家といえばトーマス・マンがミュンヘンで住んでいたのも、この地区である。

歴史や文化に関する話題が尽きないボーゲンハウゼンだが、この地区とイザー川に挟まれた散歩道がなければ、その魅力は半減しているだろう。特に聖ゲオルグ教会の西側の、なだらかな傾斜を見せてイザー川へ下って行く草原と並木道は、息を呑むほど美しい。イザー川のために、森が突然なくなって、ぽっかりと緑の谷間が現れたような、変化に富んだ風景が、住宅街の真ん中に生まれているのだ。短い夏に、緑のトンネルを通して草原にこぼれ落ちる木洩れ日は、モネの初期の風景画そのものである。すでに十年以上この付近をうろうろしている私だが、この草原と、教会の塔の組み合わせには、思わず足を止めて見入ってしまうのである。